メディアの輪郭

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編集やメディアの役割は「発信」ではなく「媒介」ーー出版の限界を超えるために必要なこと

未来の出版に必要なものは、「これまでになかった新鮮な空気」

「書き手のなか、あるいは実際に書かれたものから、いまだ書かれぬ何かを感じ、企画をたて、それを、読み手に届ける」

これは、ミシマ社代表の三島邦弘さんの著書『失われた感覚を求めて 地方で出版社をするということ』の「はじめに」にあった言葉です。本社を東京・自由が丘に置きながら、京都にもオフィスを開設。地方で出版社をおこすこと、震災後の意識や意思決定、そして、編集やメディアとは、出版を救うヒントや実践などについて読み入ることができた本でした。

ミシマ社が2006年に自由が丘にオフィスを構えた際の理由のひとつに出版社がない場所だから、という点を挙げています。おしゃれやスイーツなどのイメージがある自由が丘ではなく、「生活者の町」としての場所で出版社を営むことができた実感から、「メディアの活動は生活感覚に近いところですべし」という考えになったそうです。

そして、"出版不毛の地"(京都府城陽市)でもオフィスを開設。「未来の出版に必要なものは、『これまでになかった新鮮な空気』であることは明らかなのだから(41ページ)」。生活者の町で出版をおこなうことに加え、東京以外でも出版社がある状態をつくることで、出版の限界を超え、新しい可能性を切り開きたい、としています。

関連して、本書で特に頭に残っているのは、「脱記号」と題した項目。さまざまな要素を削り落とし、ひとことでまとめてしまったり、単純化・画一化を促すこともある記号化。まだ記号化されていないところで出版社を立ち上げることで、これまでになかった体験もできたとのこと。

それは、ミシマ社の本屋さんという小さな書店も運営していたので、読者に本が届いていることを目にできたことです。改めて、編集者として、つくるだけでなくしっかり届けることまでを意識するようになったと書かれています。

「メディア=道、コンテンツ=芸」という捉え方

本書にたびたび登場するデザイナーの寄藤文平さんと三島さんのやりとりも印象的です。

「(茶道は)おいしいものを飲むという当初の目的に直結しない行為に価値を見いだし、おいしさが置いてけぼりにされることだってある。もともとは、おいしいものを飲みたいという思いだけだったはずなんです」

「なるほど。おいしさの追求が満たされたあと、そういう具体的な目的のない行為、ゴールのない行為である『道』が起きると」

(中略)

「デザインは『道』になっちゃいけないと思うんですよ」

(124〜125ページ)

この点、将棋の電脳戦などの例も挙げられていましたが、AIやロボットの時代にはあらゆるものが道と化していくかもしれません。これについては、『情報はつねに広がりたがる』とは? メディアの成熟とコンテンツづくりの行方」という記事で紹介したメディアとコンテンツの関係を「芸道」と見立てることにも共通しそうです。

メディアというものを紐解いていくためのキーワードとして、芸能・技芸を日本独自のかたちで体系化したものを指す「芸道」が挙げられました。芸がコンテンツ、道がメディアといったかたちで、芸と道がつながるとカルチャーになるという捉え方です。

バイラルメディアの問題では、コンテンツ(芸)をないがしろにして、メディア(道)という名のスタイル/体系/システムのほうにかなり重心を傾けているため、たかくらさんは「道の暴走」と表現していました。

また、新しいメディアづくりについて、道をつくってもフォロワーがいないと意味がないけれど、どんなコンテンツでもルートができれば行き場がなくなる。

「消費者によるベストセラーではなく、読者によるベストセラーを」

三島さんは寄藤さんの話を聞くまでは編集者は「見えないものを映す鏡」と考えていたそうですが、いまでは「何もしないを全身全霊で」という「編集=念」という考え方に落ち着きます。ほかにもユニークな考えを披露しています。

たとえば、出版産業の成長はいかにして可能なのか。三島さんは「時間軸を持ち込むこと」を提示しています。それは、短期的に売れるベストセラーではなく、毎年毎年じわじわと売れていくような本のことを指しているのです(Webメディアにも共通しそう)。「消費者によるベストセラーではなく、読者によるベストセラーを(242ページ)」という力強い言葉もみられます。

また、終盤では、メディアや編集とは、という部分についても書き残しています。メディアをやっていると、情報発信の部分に意識がいきすぎることもありそうですが、あくまでも媒介が役割ということは本質だと再認識しました。

「編集やメディアの役割は、よく誤解されがちなのだが、『発信』ではない。くり返すが、あくまでも『媒介』である。自分発信に走ればかえって主体は遠ざかる。自力で全てを動かしてやろう、そういう自意識ほど自然からはるか遠い行為はない。編集者的身体とは、揺れ動く生の日々のなかにあって、なお主体をけっして手離さないでいるための感覚だ(257ページ)」